「あいつらはレイジーなんだよ。掃除でも家政婦でも何でもしたらいい。でもああやって道路で物乞いをすることを選ぶのさ。そっちのほうが稼ぎがいいんだ」
僕の友人は、メルセデスベンツを運転しながら、道路わきの物乞いを横目につぶやくように言った。南アフリカでトラブルに巻き込まれたときに助けてくれたのは彼の家族で、本当にいいやつだった。年齢も同じくらいで、渋い声が印象的な好青年だ。彼の家族はかなりの金持ちだった。ヨハネスブルクの一等地に豪邸を構えていて、僕らはそこに数週間お世話になったのだ。
とはいえ、彼の発言に僕は気分が萎えてしまった。
ほんとうに貧困は怠慢の結果なんだろうか。
世界には一日2.15ドル以下で暮らす極貧層が7億人以上いるという。貧困が怠惰の結果だとすれば、全人口の約10人に1人は怠け者という何ともいたたまれない結果になる。
もちろん、そんな簡単な話ではないはずだ。
僕の妻は南アフリカ出身だ。今でこそ英語教師の資格を取得しているものの、13歳までは読み書きができなかったという。理由は単純に、座って集中して勉強できる家庭環境にいなかったということだ。そもそも食べ物を買うことに苦労する家庭で育った子供たちが、勉学やその他のスキルの取得に力を入れ貧困から自力で抜け出すのは非常に困難だ。僕は貧困から抜け出すことのできた妻と彼女の意志の強さを誇りに思う。と同時に、全ての人がそうできるわけではないことを知っている。
子供の健全な成長は、「勉強に集中できる環境にあること」「良いところを見つけ励ましてくれる大人」「自尊心の発達」「健康的な食事」などの基盤の上に成り立つ。紛争、政治腐敗、自然災害、家庭の崩壊、人種差別等の理由で、こうした子供の健全な成長が著しく阻害された場合、とにかく空腹を満たすための「その日暮らし」がはじまる。ストレスから逃れるためアルコールやドラッグに手を出す人もいる。こうして貧困の負のスパイラルから抜け出せなくなる。これはアフリカであろうが日本であろうが同じことだ。
習慣の問題もある。人は一度培った習慣を後にして、別の方法を試すのに気後れするものだ。長年働いてきた会社を突然辞めてキャリア変更をするところを想像してみてほしい。それには多少リスクを冒しても長い目で見れば成功できるはずだという内面の自信と勇気が求められる。しかし幼少期に適切な自尊心を培う機会のなかった人の場合、そうした習慣の変更を特に難しく感じる。たとえ低賃金であったとしても、その日食べるものが手に入る状況ならば、リスクを冒して他の仕事をしてみようとは思わないかもしれない。
人が貧困に陥る理由は実に様々であり、極貧状態にある人々が背負っている荷はあまりにも重い。とはいえ、「貧困は怠惰だ」という人間を責める気にもなれない。なぜなら通常人は自分の過去を他の人に話したいとは思わないものだし、僕がそうであったように健全な家庭環境で育った人間とそうでない人間の間には大きな隔たりがあるのだ。それは二つの全く別の世界であり、本当に理解し合うのは不可能に近い。
じゃあ、僕の妻はどうやって貧困から抜け出したかって?それは、また別の時、別の機会に話そうと思う。